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100年を超える、
情熱と挑戦の歴史


マセラティの物語は1914 年、アルフィエーリ、エットーレ、エルネストのマセラティ3兄弟がエンジニアリング ビジネスをイタリアのボローニャで創業したときに始まりました。優秀なメカニックやモーターレースの信者である彼らは、すぐに自分たちのクルマを作り始め、成功するための決意、不断の努力、そして希望により1926 年、タルーガ フローリオでマセラティ ティーポ 26 はクラス優勝を収めました。その後、勝利に次ぐ勝利で世界最速記録を打ち立て、インディ500 で勝利し、F1やスポーツカー世界選手権で数えきれないほどの優勝トロフィーを獲得し、マセラティはモータースポーツの世界でもっとも恐れられ、尊敬されるレースカーとなりました。同時に企業としては真価が分かる、ごく少数の顧客たちのために世界で最も美しい、見事に設計されたクーペ、セダン、コンバーチブルを製造することでも評価を高めました。

現在、マセラティはまさしくイタリアの象徴(創造性、情熱、革新、スタイルのシンボル)になったのです。クラフトマンの技術、ディテールへの緻密なこだわりが融合しあい、常に変わらぬ興奮や刺激を提供する、類まれなる魅力を全身に宿したモデルを世に送り出しています。

1900-1920:


 

1900 - ある一家の情熱

 

マセラティの歴史は、ある一家の歴史として始まります。当時、鉄道労働者であったロドルフォ マセラティは、妻カロリーナと7人の子供たちと共に暮らしていました。ロドルフォが蒸気機関車に深い情熱をそそいでいたことから、子供たちもスピードへの情熱を受け継いでいました。1881年に生まれた長男カルロは、末っ子のエットーレが1894年に生まれた時には既に彼のキャリアをスタートしており、20世紀の変わり目には、“マセラティ ファミリー”が完成されていました。

1900 - カルロ マセラティ:ビアンキへ向かう

 

カルロ マセラティはじっとしていられない性格でした。フィアットを去った後、レースへ強い情熱により、転職先であったイソッタ・フラスキーニを後にし、1907年にビアンキに移りました。レースで大変忙しい毎日を過ごしていましたが、カルロは車両デザインへの情熱をあきらめたわけではありませんでした。彼はビアンキ車の弱点は低電圧点火システムであることをよく理解していたので、彼自身が設計した高電圧システムへと替えることで、ビアンキ車の弱点克服に努めました。

1903 - カルロとアルフィエーリ:イソッタ・フラスキーニてに

 

1903年、カルロ マセラティはフィアットを去り、テストドライバーとしてイソッタ フラスキーニで働き始めました。その際カルロは、当時16歳だったアルフィエーリを同社に呼びよせました。1908年、カルロはイソッタ フラスキーニを離れましたが、アルフィエーリは残留しました。最初はメカニックとしての採用でしたが、後にドライバーとしてアルフェリーニを欲しいと考えていたチェーザレ イソッタの目に留まっていたからでした。1908年、アルフェリーはドライバーとして、イソッタ フラスキーニ ナンバー41で『グラン プレミオ delle Voiturette di Dieppe』に参戦し、14位に入賞、そして4気筒車では1位を獲得しました。

1908 - 家族の一員を失う哀しみ

 

カルロ マセラティは、ミラノに拠点を置く自動車会社のマネージングディレクターとして転職し、その後1908年には航空機エンジンの設計·生産に関する会社を設立しましたが、走ることへの情熱を忘れたわけではありませんでした。カルロはこの新しいプロジェクトに大変情熱を注ぎましたが、肺の病気により、1910年に惜しまれながら他界しました。彼の死はマセラティ兄弟に大きな打撃をもたらしましたが、カルロは決して忘れられることなく輝き続けました。カルロが設立した会社は、マセラティ兄弟の一人であるアルフィエーリが継ぐこととなりました。

1913 - アルフィエーリ初のワークショップ

 

イソッタ フラスキーニで働いていたアルフィエーリは、1913年、サービスセンターをボローニャに移しました。彼はブランドのアンバサダー的な存在として働いていましたが、カルロ亡き後、マセラティ兄弟たちと共に、兄が設立した会社を継ぐことを決意しました。ビンドはイソッタ・フラスキーニに残りましたが、エットーレとエルネストはアルフィエーリに従いました。マセラティ兄弟たちは、ワークショップ付きのガレージ、 「ソシエータ・アノニーマ・オフィチーネ・アルフィエーリ・マセラティ」を創設しました。1914年12月1日、ボローニャ商工会議所にて会社登記申請が受理されましたが、その5ヵ月後、イタリアは第一次世界大戦に参戦することになり、ビジネスを続けることが難しくなりました。アルフィエーリとエットーレは徴兵され、17歳のエルネストは日中ワークショップで働き、夜にはボローニャのアルディニ技術研究所に通い技術を磨く、という生活が続きました。

1914 - マセラティ ワークショップ:新たなアドレス

 

戦争が終結すると、アルフィエーリはビジネスを再開し、ポンテヴェッキオ地方のアレマンにプラグ工場を設立しました。ここには倉庫やワークショップ、そして三人の兄弟と母親が住むことができる小さなスペースがあり、家族はそこで新たに生活をスタートさせました。 1914年7月には、スパークプラングの生産工場も同エリアに移動させました。当時撮影した写真には、大きな窓に正式な会社名である「オフィチーネ アルフィエーリ マセラティSA」の文字が確認できます。

1915 - 戦争もマセラティ兄弟を止められない

 

第1次大戦中、イタリア軍はマセラティ兄弟の技術や専門知識を利用するため、彼らを最前線ではなく、背後での活動に従事させる命令を下しました。アルフィエーリは、航空機エンジンを組み立てるためにミラノに移動させられましたが、それ以上に何かをしたいと考えていたアルフィエーリは、「トゥルッコ&マセラティ」という会社を立ち上げ、航空機エンジン用の特別なスパークプラグの設計・製造をはじめました。「トゥルッコ」とは、レーサーでもあったアルフィエーリの昔からの知人の名前です。

1918 - マセラティ・スパークプラングがダンヌンツィオを飛ばせた

 

アルフィエーリにより特許を取得したスパークプラグは、SVA航空機に採用されました。著名なイタリア人の詩人・作家・政治活動家であったガブリエーレ ダンヌンツィオは、後に彼を絶対的な地位に押し上げることになった1981年の「ヴィエナ攻撃の偉業」(700マイルの往復飛行を行い、ウィーン市内にプロパガンダ用のビラを配布)を成し遂げた際、この飛行機を使用していました。

1920-1940:

1920 - ザ・トライデント:マリオ マセラティが残したもの

 

アルフィエーリ、エルネストとエットーレは初のマセラティとなるモデルの作成の為、一心不乱に働きました。アルフィエーリは、エンジニアリングの知識は何もない兄弟の一人で、アーティストでもあったマリオを関与させることにしました。マリオはマセラティのロゴの作成を依頼されたのです。アルフィエーリの親友でパトロンでもあった侯爵の提案により、ボローニャの最も特徴的なシンボルで、力強さと活力の象徴でもあるマッジョーレ広場のネプチューン像のトライデントを使用することに決定しました。その際、後にマセラティ カラーとして認知されることになるボローニャ市の旗色である赤と青を使用しました。

1922 - ディエットとアルフィエーリ

 

1922年、マセラティ兄弟はトリノを拠点とするディエットとのビジネスを開始しましたが、ディエットとのパートナーシップ開始直後の初レースの結果は大変悪いものでした。この結果を踏まえ、アルフィエーリは、ハイブリッドの「イソッタ フラスキーニ-イスパノ スイザ-SCAT-イタラ」を持ち帰り、エンジンを満足いくまで完全に再設計し、「ザ・ディエット」と名付けました。その結果、彼は毎時69キロの平均速度で『スサ・モンツェニシオ』に勝利するエンジンを作ることができました。その後エルネストと共に、『アオスタ·グラン·サンベルナルド』でも偉業を成し遂げました。

1925 - ディエゴ・デ・ステルリッチ: 最強の親友

 

1925年、ディアットのドライバーで、アルフィエーリの大ファンであった侯爵ディエゴ・デ・ステルリッチの財政支援のおかげで、マセラティ兄弟は10台のディアット 30 Sport chassiを購入することできました。これは、マセラティがスポーツカーの生産を開始する大きなきっかけとなりました。

1932 - アルフィエーリの死:レース界の悲しみ

 

1932年、アルフィエーリは手術中に息を引き取りました。44歳でした。 1927年の事故でダメージを受けた腎臓が弱っており、​​それを改善させるための手術でしたが、残念ながら成功しませんでした。アルフィエーリが亡くなった時、ボローニャは全ての活動を停止したようでした。葬儀の葬列者の中には、当時もっとも重要だと考えられていた著名なレーサーが多く含まれていました。アルフィエーリの死は、誰にとっても、そして特にマセラティ家や会社にとっても大変大きな損失でした。ビンドはイソッタ フラスキーニをやめ、兄弟が経営するマセラティ社に参加しました。そして才能があったエルネストは、技術的な側面を担当することになりました。その後、新しいTipo V5がデビューし、困難な経済状況にもかかわらず、マセラティは繁栄を続けました。

1933 - 偉大なるヌヴォラーリ

 

1933年、伝説的なレーサー、タツィオ ヌヴォラーリは、彼を対等なパートナーとして認知していないという理由で、エンツォ フェラーリを脱退し、マセラティチームに参加しました。ヌヴォラーリは8CMを運転し、ベルギーGP、チアノカップ、ニースGP等で続けて勝利しました。この時使用した車両は、エルネスト マセラティによって再設計されたサスペンションによる前8Cの進化したものでした。フロントシャーシは、ドライバの提案のより、より剛性を強めたものを使用していました。タツィオとマセラティのパートナーシップは1934年まで続きましたが、彼はマセラティ公式チームの一員にはなりませんでした。彼はマセラティ車を購入し、エルネストからの技術支援をうけましたが、彼はあくまでも”民間の一ドライバー”としてレースを続けました。

1937 - オルシ氏とのパートナーシップ

 

8CMが大ヒットしたにもかかわらず、マセラティは、政府によってサポートされているメルセデスなどのドイツ勢からのプレッシャーに悩まされていました。エルネスト、エットーレとビンドは、イタリア政府も決定的な変化を必要としていることをよく理解し、イタリア人起業家であるアドルフォ オルシとの協力関係の申し出を承諾しました。当時の”オルシ帝国”は、農業機器からサービス業、冶金から工作機械、そして鉄鋼業界へと多岐にわたっていました。1937年、エルネスト、エットーレとビンドはオルシ氏にマセラティの経営をゆだねることを決意しました。経営権を譲渡した際の契約条件から、マセラティ兄弟は、スパークプラグの生産のためのファブリカ カンデーレ社と、マセラティ及びレースカー生産のためのオフィチーネ アルフィエーリ マセラティの経営を任されていました。敏腕ビジネスマンであったオルシ氏はマセラティ社の財政を立て直しましたが、専門知識を持たなかったことから、技術的側面に干渉することができませんでした。

1939 - 8CTFのインディアナポリスでの勝利

 

オルシ·マセラティ時代の最初のプロダクトは1938年3月に発表されました。8シリンダー固定ヘッドの8CTFです。ウィルバー・ショーが運転する「8CTF ボイル スペシャル」は、1939年、アメリカのインディアナポリスで初めて勝利を飾り、その翌年も勝利しました。マセラティは、今でもアメリカで権威のあるタイトルを獲得した最初のイタリアのメーカーとして認知されています。

1940-1960:

1940 - 新しい本社:新たな機会

 

第二次世界大戦の勃発により、マセラティはモデナに向けてボローニャを後にしました。オルシ氏は、彼が所有している1つの地域内に事業すべてを集中させたかったのです。マセラティの工場は、その後 「世界の自動車工場」と同義語となる地域、ヴィアーレチロメノッティに建設されました。しかし戦争のため、しばらくの間はレースカーを生産することを中断し、戦争に不可欠であったスパークプラグやその他の軍事製品を生産することに集中しなければいけませんでした。

1946 - マセラティ A6: 初のピニンファリーナ グラントゥーリズモ

 

1946年3月、”初のグラントゥーリズモ”と考えることができるプロトタイプ - レース用でなく日々の使用のための最初のマセラティ - がジュネーブ自動車ショーで発表されました。"A6"の”A”は アルフィエーリ マセラティの頭文字、そして”6”はシリンダ数を示していました。このプロジェクトは、マセラティ兄弟が自らの会社を永遠に去ることに決意した前から続けられていました。そのデザインと独創性は瞬く間に認知され、生産が本格的に始まりました。 続いて、1948年のトリノモーターショーでは、著名なデザイナー、ピニンファリーナによりスタイリングをされた最初のA61500年モデルを発表しました。

1946 - ニースでの勝利:時代の終わり

 

1946年のニッツァでのグランプレミオにおけるマセラティの勝利は、”第二次世界大戦はついに終結した”ということを示す象徴でもありました。民間企業や市民が再び動き出したのです。この成功の後、エルネスト、エットーレとビンドは、オルシ氏が経営権を持っているマセラティ家が立ち上げた会社を後にし、ボローニャに戻ることを決意しました。オルシ氏との問題があったわけではありませんが、おそらくマセラティ兄弟は、資本主義的な考え方から逃げることを選択し、加えて労働組合との継続的な議論にも疲れていたからだろう、という意見が多くありました。マセラティ兄弟はレースカーの設計と開発を専門的に行う新しい会社、OSCAを立ち上げることにしました。

1950 - F1の誕生

 

1950年は、その4年後に『F1』の基礎となるレースが誕生した年でもありました。マセラティ チームは最初のレースから参加していましたが、自社の車両での勝利はありませんでした。 1940年代終わりのマセラティ社内での緊張は、レースカーの開発を妨げていましたが、 1952年にF1ルールが改正された時、状況は一変しました。

1954 - ファンジオ時代のはじまり

 

1954年、『ワールド・チャンピオンシップ』のルールは再び変更されました。一般的には、これが本当の意味ので『F1』が生まれた瞬間であると言われています。マセラティは250Fで、即座に勝利の主人公として返り咲きました。アルゼンチン人のレーサー、ファン·マヌエル·ファンジオはアルゼンチンとスパグランプリを受賞し、その後メルセデスのレーサーとして働き、フェラーリに戻りました。その間、数多くのタイトルを獲得しましたが、彼のキャリアの最高の瞬間はマセラティを運転した際に生まれたのでした。

1956 - フェラーリ・マセラティの決戦

 

1956年の『F1』は、モデナからの一族対決、すなわちフェラーリとマセラティの決戦となりました。当時のモデナは半分に分断され、それぞれのチームを応援しました。レースが行われた翌日のモデナ市街地では、勝利したチームのファンが、敗者の応援チームに対して自慢する光景をよく見ることができたそうです。

1957 - 好転の兆し

 

1957年のレースで圧倒的な勝利をおさめた後、オルシ氏は財政難の為、スポーツ部門を含む産業部門の一部分を閉鎖することを決意しました。オルシ氏にとって経済的にも大きな打撃ではありましたが、それは同時にマセラティの復活の始まりを知らせるものでもありました。マセラティ兄弟は自動車分野のみに集中することで、短時間で世界で最も権威のある自動車メーカーの一つに返咲いたのです。

1957 - 偉大なる勝利

 

1957年、著名なアルゼンチン人レーザーのファン·マヌエル·ファンジオがフェラーリを離れ、マセラティに再び着任しました。ファンジオは、世界タイトルを獲得するために必要な8つのグランプのうち4タイトル、特に重要なアルゼンチン、モナコ、フランスとドイツでタイトルを獲得しました。1957年8月4日の日曜日、ニュルブルクリンクサーキットにて、ファンジオは世界チャンピオンになったのでした。

1960-1980:

1960 - 「ホワイトダーム」と「ペルシャのシャー」

 

「ホワイトダーム」と呼ばれた3500 GTの最初のプロトタイプは、経済好景気に対する自動車市場へのマセラティの答えでもありました。中東の国王(ペルシャのシャー)は、この「ホワイトルダーム」に大変感銘を受けましたが、さらにエクスクルーシブな車両を望んでいました。有名なエンジニアであるジュリオ アルフィエーリはその挑戦を受け、最終的には彼の待望の夢であった”グラントゥーリズモに450 Sの8気筒を入れる”ことを実現したのでした。 「ペルシャのシャー」は、コレクターや車の歴史家の間で、最高のモデルの一つであると考えられています。それは金と貴重な木材で仕上げてあり、当時世界では最もエクスクルーシブで豪華な車であったといわれています。

1961 - マセラティ:再びの勝利

 

マセラティはレースへの情熱を決して忘れませんでした。 エンジニアであるジュリオ アルフィエーリは伝説のTipo 60を生み出したのです。Tipo 60はそのニックネームである”バードケージ”で知られ、マセラティ名での公式レース参加はなかったものの、最も権威だと考えられていたニュルブルクリンクと米国で2連勝を記録しました。

1961 - 「バードケージ」 シャシー

 

マセラティ チーフエンジニアのジュリオ・アルフィエーリは、ごく細い経のパイプを多数組み合わせてシャシーを製作する手法を考えた。これが1951年に誕生したTipo60「バードケージ」であり、わずか36kgのシャシーにディスクブレーキと45度に搭載された4気筒エンジンが採用された画期的なフロントエンジンスポーツカーとなった。1961年にはミッドマウントエンジンを採用したTipo63がデビューし、その後、Tipo63の改良モデルであるTipo64, Tipo151のエンジンを搭載したTipo64というバリエーションが世に送り出された。

1963 - トリノ モーターショーでのクアトロポルテの輝かしい成功

 

1963年のトリノモーターショーで初代クアトロポルテをデビューさせ、ラグジュアリー スポーツセダンという全く新しいカテゴリーを市場へもたらしました。コンセプトは、“マセラティの優れたレーシングエンジンを採用し、セダンのボディへ装備させる”という当時にしては革命的かつ未踏の領域でした。 同年、軽量、非常にスポーティでパワフルなミストラルが発表され、有名な風の名前から命名された、最初のマセラティモデルとなりました。

1965 - ルチアーノ・パヴァロッティとマセラティ

 

セブリングは、3500 GTの進化したモデルです。著名なアルゼンチン人レーザーであるファン·マヌエル·ファンジオが1957年に12時間耐久のタイトル、フロリダオートドロームの獲得にちなんで命名されたものでした。モデナ出身の若いテノール歌手(後のオペラ歌手、ルチアーノ・パヴァロッティ)もセブリングを購入しました。それはマセラティと偉大なマエストロの間に永続的に続く関係の始まりでもありました。

1967 - ギブリ:ジウジアーロ初のマスターピース

 

60年代半ば、マセラティは著名なイタリア人デザイナー、ジョルジェット ジウジアーロとのパートナーシップを開始しました。彼の最初のプロジェクトである8気筒ギブリは、1966年のトリノ オート ショーでデビューし、大成功を収めました。当初100台のみの生産計画だったギブリですが、その計画はすぐに400台へと修正されました。結果、1972年の終わりまでに合計1295台を生産することになりました。

1970 - 大きな変化の時代

 

時代の流れに取り残されないために、オルシ・ファミリーは、シトロエンという新しいパートナーを取り込むことに決定しました。フランス系自動車メーカーの企業文化の影響を受け、マセラティはモデルによって組織しなおされ、より構造化されました。 70年代には、マセラティ社内でその他多くの構造改革が起こり、オルシ家は最終的にシトロエンをゲッピ(アルゼンチンとイタリアの起業家であるアレハンドロ·デ·トマソが監督するイタリア国営会社)に販売しました。多くの構造改革が行われましたが、変わらないものもいくつかありました。それは、新しいモデルを提案してやまないマセラティの革新的な力でした。

1971 - マセラティ ボーラ: ジウジアーロ再び

 

1971年、イタリアンデザインの創設者で、工業デザイナーであるジョルジェット・ジウジアーロは、有名な風の名前にちなみ、「ボーラ」となずけた新たなマスターピースを完成させました。この特別なクーペは、よりスポーティーな感覚のデザインでした。加えて、翌年1972年のジュネーブモーターショーでは、「ブーメラン」と呼ばれる未来型のクーペを発表しました。「ブーメラン」は未だに生産されたことはありませんが、これらはジウジアーロの最も有名なコンセプトカーの一つとして称賛され続けています。

1978 - 大統領公用車としてのマセラティ

 

1978年、イタリアの元大統領であり、戦争の英雄でもあるサンドロ・ペルティーニが、公用車としてとしてクアトロポルテロワイヤルを選びました。ペルティーニ元大統領とマセラティの関係は、1985年まで続きました。ペルティーニ元大統領は常にマセラティに乗っており、マセラティに乗った大統領に会うことをエンツォ フェラーリが拒否した「マラネッロの訪問」も、ペルティーニ元大統領とマセラティに関する逸話の一つとして今も語られています。

1980-2015:

1980 - 映画の中のクアトロポルテ

 

マセラティクアトロポルテは、エレガンスとスタイルの代名詞であり続けました。1980年代には、多くの映画にクアトロポルテが登場しました。たとえば、シルベスター·スタローンの「ロッキーIII」(1982年)、デヴィッド·クローネンバーグによる2つの映画、「フライ」(1982年)と「デッドゾーン」(1983年)にそれぞれ使用されています。

1981 - ビトゥルボの大いなる成功

 

ビトゥルボは、80年代の中で最も象徴的なモデルとして考えられています。最初のセダンは1981年12月14日に発表されました。美しく、非常に高いパフォーマンスのこの車は、2台のコンプレッサー、6気筒1,996 ccを搭載しており、最大時速215キロを記録しました。 ビトゥルボはもっとも多く生産されたマセラティ車になりました。その複数のバージョンを含め、1982年から1993年にかけて、約3万7千台が生産されました。

1993 - フェラーリ:ライバルからパートナーへ

 

マセラティの未来は、1993年にフィアットグループによる買収とともに始まりました。先見の眼を持ったジョバンニ アニェッリは、マセラティというまだ小さかったイタリアのアイコンの潜在的な力をよく理解していました。同社は、フェラーリの社長兼最高経営責任者であるルカ·ディ·モンテゼーモロによって率いられていました。フェラーリによるマセラティの最終買収は、1997年と1999年の2段階で行われました。モデナの2つの最も有名な自動車メーカーのパートナーシップは、以前のライバル時代より、より広く知れ渡るようになりました。

1998 - 3200 GT: ジウジアーロの新たなクーペ

 

フェラーリ傘下の最初の功績は、ジョルジェット ジウジアーロによって設計されたクーペ、1998年のパリモーターショーで発表した3200 GTを完了したことでした。しかし、すぐにマラネッロで生産されたエンジンを使用し、そのクーペをアップグレードすることになりました。この革命的なアイデアから、米国市場へのマセラティの復帰を示すモデルであるスパイダーが生まれました。

2001 - マセラティ、アメリカを制覇

 

12年間にわたる不在の後、2001年にマセラティは米国市場に戻ることとなりました。アメリカでの厳しい品質と安全性テストに合格することができたマセラティは、どのような挑戦にも挑むことができる状態でした。そしてマセラティの復帰は、米-伊・癌財団のガラ パーティで盛大に祝われました。会場には、ローレン·バコール、イヴァナ トランプ、ウンベルトベロネーなどの著名人がつめかけました。マラネッロからのエンジンを搭載した本当の意味での最初のマセラティ、「マセラティ スパイダー」は、当日のチャリティーオークションの目玉でした。エレクトリック ブルーのボディは、ジョルジェット ジウジアーロのデザインを際立たせました。「マセラティ スパイダー」の落札価格は、当時の値段で13万ドル。ミラノとニューヨークで働くイタリアの銀行家によって落札されました。

2003 - クアトロポルテ:ピニンファリーナの復帰

 

最初のグラントゥーリズモのモデル発表の約半世紀後、ピニンファリーナは、マセラティ史のかなでも常に特別な位置づけをされているクアトロポルテの新たなモデルをデザインするため、マセラティに戻ってきました。新しいクアトロポルテの発売は、収益を大幅に増加させただけではなく、サンドロ·ペルティーニ元イタリア大統領やカルロ・アツェッリョ・チャンピ元首相/大統領などを含む多くの政治家や著名人に公用車として選ばれ、愛され続けました。

2004 - 数々の世界チャンピオン

 

2004年、ジョルジェット ジウジアーロとフランク スティーブンソンによって設計された、素晴らしいレースカーであるMC12とともに、マセラティは勝者として返り咲きました。 2005年から2010年までのFIA GTへの参加により、マセラティは14タイトルと19勝を記録しています。内訳としては、2つのマニュファクチャー・カップ(2005年と2007年)、5つのドライバー・チャンピオンシップ(2006年バーテルズ·ベルトリーニ、2007年トーマス·ビアッジ、2008年、2009及び2010年バーテルズ·ベルトリーニ)、6つのチーム・チャンピオンシップ(2005年以降、Vitaphoneレーシングチームから記録を破られていなかった)、1つのCitationカップ、JMBレーシング、そして3つのSpa24時間耐久での勝利でした。

2005 - バードケージ75th コンセプトカー

 

2005年に発表されたバードケージ75thは、創立75周年をを迎えたピニンファリーナを祝うため、MC12のシャシーをベースに、マセラティのレースの伝統を生かすべく、マセラティ バードケージのイメージを根底に創り上げられた。 この”ドリームカー”は走行可能であり、マセラティのデザイン史の中でも重要な一部として位置づけられるようになった。

2007 - グラントゥーリズモ:大いなる成功

 

デザイナーであるピニンファリーナは、クアトロポルテに続き、マセラティの歴史に大きな影響を持つこととなった新しいクーペを設計しました。信じられないほど美しいグラントゥーリズモは、2007年のジュネーブモーターショーで一際注目を浴びました。プレス関係者は、こぞってメディアの表紙にグラントゥーリズモを起用し、受注は日増しに増えていきました。しかしこの成功はマセラティのサクセス ストーリーの始まりにしかすぎませんでした。

2013 - マセラティ ギブリ

 

高級感とスポーティさの融合が追求されたマセラティ ギブリ。それはまさに、最高傑作のデザインであると言えます。同心円状の息をのむほどの美しいシルエットを生み出しているフロントとリアのホイールアーチによって、ギブリの滑らかで流れるようなラインにダイナミックな印象を与えています。デザイン、パフォーマンス、インテリア、どれをとっても、マセラティの歴史の中でも代表的なモデルと言えます。

 

2013 - The new Maserati Quattroporte

 

1963年トリノモーターショーでのデビューから50年の歳月を経て、画期的な革新性と優れたテクノロジーを兼ね備えた、新たなフラッグシップモデル「クアトロポルテ」を発表しました。エレガントとパワーが完璧に融合された、新たなる名声の始まりでもありました。 

 

 

2014 - アルフィエーリ コンセプトカー

 

ジュネーブモーターショーで世界初公開された「アルフィエーリ」はスリリングでいてリアリティマセラティの未来像を形作るデザインを余すところなく表現したモデルです。プロトタイプでありながら100%走行可能なこのコンセプトカーは、まさにマセラティの未来へつながる扉とも言うべきモデルです。

Alfieri

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