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Rise and Fall of De Tomaso Era
Milestones in Luxury

1970年代のマセラティ

今年はマセラティ創立110周年のアニヴァーサリーイヤーだ。アレッサンドロ・デ・トマソがマセラティのイニシャチブを握った1970年代後半はブランドの大きな変革期であった。製品のクオリティなどで、この時代をネガティブに捉える向きもある。しかし、経営状態が悪化していたマセラティを復活させたのは事実であるし、私たち日本にブランドを定着させたのがこの時期のモデルであることも、まがう事なき事実である。

1975年のマセラティは瀕死の状態にあった。1972年に世界を襲ったオイルショックは、ハイパフォーマンスカー・マーケットを崩壊させた。さらに親会社であるシトロエンがマセラティの経営から手を引かざるを得ない事態が発生し、悲劇を決定的なものとした。マセラティが資産凍結状態となる中で、雇用確保の為の公的資金を後ろ盾に再建の道が検討されることとなった。

アレッサンドロ・デ・トマソの登場

そこに登場したのが、同じモデナで少量生産メーカー”デ・トマソ社”を司るアレッサンドロ・デ・トマソであった。そう、彼が新たにマセラティの経営をコントロールすることとなったのだ。この場面も、さまざまな捉え方はあるが、アレッサンドロ・デ・トマソがマセラティの破綻を回避し、従業員達の雇用を守ったというのはひとつの事実である。

デ・トマソ社のラインナップにあった少量生産モデル、ロンシャン(2ドアクーペ)のシャーシにマセラティ製V8エンジンを搭載し、エクステリアをリニューアルしたマセラティ・キャラミ。同様な手法でドーヴィルがジョルジェット・ジウジアーロの筆によるボディを纏ったクアトロポルテⅢとして、スピーディにデビューを飾った。

しかし、これら大排気量エンジン搭載の少量生産モデルのマーケットは縮小するばかりであった。これは同じモデナを本拠とするフェラーリやランボルギーニも同様であり、新たな生き残りを模索しなければならなかったのが当時の状況であった。

 

量産ダウンサイジングモデル=ビトゥルボ

そこでマセラティが選択したのは、それまでマセラティが作ってきた大排気量グラントゥーリズモとは全く異なった量産ダウンサイジングモデル=ビトゥルボの開発であった。このビトゥルボは大きな成功を収め、オイルショックを受けて停滞していたモデナのハイパフォーマンスカー業界に新風を吹き込み、マセラティをモデナ一の生産台数を誇るブランドへと復活させた。

 

ビトゥルボの大躍進

1981年に発表されたビトゥルボ(ツインターボのイタリア語)はその名の通り、新開発V6ツインターボエンジンを搭載したコンパクトな5座クーペであった。オーソドックスが外観からは想像もつかない硬派なハイパワーエンジンを搭載したユニークなクーペは比較的手頃な価格設定がされたこともあり、発売と共に引っ張りだことなった。ちなみにイタリア国内仕様は大排気量モデルに課される高額な付加価値税を回避するため、2Lとされた。また、BMW3シリーズのようなヨーロッパ製コンパクトクーペがブームとなっていた北米マーケットへの積極的取り組みを重要な販売テーマとした。

2ドアクーペのビトゥルボをベースとして実用的な4ドアモデル425が間髪を入れずに追加され、インテリアにミッソーニ製ファブリックを用いたことも話題となった。また、ザガートへと製造の一部を委託したスパイダー・ザガートなど破竹の勢いでラインナップは拡大された。

海外マーケット向けには当初より2.5Lモデルが設定され、続いて2.8Lエンジンも導入された。北米のニーズに合わせてワイドボディの2ドアクーペ 228が追加されると共に、2ドアクーペは222、4ドアモデルは430へとアップデートされた。最初期のビトゥルボは特殊なチャンバー内に装着されたキャブレター仕様であったが、これはメインテナンスフリーというワケにはいかず、マーケットからは不評であった。その為、2.5L後期モデル及び2.8Lモデルにはウェーバー・マレリ製インジェクションが導入され、信頼性を高めた。それまで年間数百台程度の生産規模だったマセラティだが、1980年代半ばにはなんと7000台を超える数字を記録したのだ。

量産路線からのシフトチェンジ

しかし、その積極的な展開は少し急ぎ過ぎていたのかもしれない。1980年代当時、ヨーロッパ、北米ともサプライヤーの生産するパーツの品質問題が深刻であり、それが車両の信頼性を損なう大きな原因となっていた。この時期、日本車が高品質を武器として世界のマーケットへ躍進したのも、このクオリティ問題があったからでもある。マセラティもその例外ではなく、アフターサービスの不備や、北米における続出するリコールなど悪条件が加わり急激にビトゥルボの販売は落ち込んだ。実際は繊細なハイパフォーマンスカーであるにもかかわらず、そのおとなしい外観から、ベーシックなファミリーカーと同じような取り扱いがされたことも仇となったのだ。

 

1980年代後半には北米輸出が途絶えたこともあり、それまでの量産路線は、ニッチなハイパフォーマンスカー路線へとシフトしていった。スパイダー・ザガートにハードトップを取り付けたスタイルのカリフ、そして1991年にはマルチェッロ・ガンディーニによるカリフのワイド版たるシャマルが新設計V8エンジンを搭載してデビューするなど、このコンパクトで素性のよい“ビトゥルボ系”プラットフォームから多くの派生モデルが生まれた。

デ・トマソ期の功績

ネガティブな捉えられ方をされることもあるデ・トマソ期であるが、アレッサンドロ・デ・トマソによる大改革が無ければマセラティの歴史は途絶えていたかもしれないという点では再評価されつつもある。また、現在に通ずる量産化を前提としたモデルの起源がここにあることも間違いない。次回はこの“デ・トマソ期”がどのような結末を迎えるかというトピックから続けて行きたい。

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